どのような人が翻訳しているのかを説明することは重要なこと。


真理発見訳において新約聖書をどう翻訳しているかを説明するにあたり、どのような人が翻訳しているのかを説明することは非常に重要なことだと考えていました。


私は中根英登です。私がロバート・テリーと出会ったのは、日本の名古屋市にある英会話教室でした。私は生徒で、ロバート・テリーは先生でした。なぜ私が英会話教室に通い始めたのかというと、私が大学で英語の先生を始めたので、英語ができるようにならなくてはいけなかったからです。


そのうち、ロバート・テリーがどのような人生を歩んできたかを知るようになりました。「私は今、高校の先生をしながら翻訳の仕事も請け負っている。元々は、キリスト教を布教するために私はこの国にやってきた。青年だった頃は繁華街で大勢の日本人に私は声をかけた。」


思い出しました、20世紀末、名古屋市の繁華街の栄の交差点で、道行く人々に声をかけ続けている背の高い外国人の姿を。彼はちょっとした有名人でした。もっとも、布教はうまくいかなかったはずです。道端で誘われて宗教の話に付き合う日本人は本当にいませんから。そのころの私も彼と声を交わすことはありませんでした。それがその後、週に一度会うようになるのです。


私は子供の頃、キリスト教の教会に通っていました。近所に救世軍があったものですから。けっこう熱心なクリスチャンだったと思います。救世軍では、神父や牧師のことを連隊長と呼んでいたのですが、連隊長とその家族のことが大好きだったのですね。そして高校生になって、連隊長が代わり、私は教会に通うことをやめてしまいました。


ロバートさんは、聖書の話をしていると心が安らぐそうです。私も聖書の内容は知っていましたから、いつしかロバートさんから聖書の話を聞くようになりました。そして時には聖書について議論もしました。さらに、インターネット上に聖書の本文がたくさん上げられているということで、日本語の聖書と英語の聖書を照らし合わせたりもしていました。


その間、私達の環境は移ろっていきました。ロバートさんは韓国からやってきた女性と結婚し、私とロバートさんが出会ったきっかけとなった英会話教室を2人とも退出し、ロバートさんは日本の法律に基づきロバートさんの妻様の実家のある韓国に引っ越しました。それでも私とロバートさんは聖書の縁で今でもつながっています。


ロバートさんのことを私は原理主義者と呼んでいます。ロバートさんは、聖書に書いてあることは絶対的に正しいといつも主張しているからです。そのロバートさんから、実は英語版の聖書にはたくさんのバージョンがあることも教えてもらいました。そして、新約聖書のルーツは、ラテン語ではなくギリシャ語であることも知りました。


ふと、私はロバートさんに「新約聖書をギリシャ語から翻訳してみましょうか」と提案しました。ロバートさんにはひとつ懸念がありました。ギリシャ語から翻訳するということは、今ある英語版や日本語版の新約聖書を疑うことに繋がることにはならないだろうか、と。さすがは原理主義者らしい発想です。


私は彼を説得しました。翻訳家なら知っているはず。翻訳にはかならず幅が存在する。ズバリ一緒の対応関係にある単語など元々ほとんど存在しない。ニュアンスや対象範囲にはかならずズレが生じるもの。「水」の英訳はwaterである。日本語では冷たい状態のみ水であるが(熱いのは「湯」)、英語では温度は関係ない。ギリシャ語から翻訳すれば、原文でなければ分からないニュアンスを発見できるかも、ですよ。労力をかけるだけの価値はきっとあるはず。もし翻訳の幅を発見できれば儲けものだし、もし従来の翻訳が完璧であれば、すごいと納得できるではないですか、と。


こうして、私とロバート・テリーはギリシャ語からの翻訳を始めました。2014年9月のことでした。


私はこちらで翻訳しています。
これからも私は翻訳し続けることになっています。


『・新約聖書【真理発見訳】New Testament [Truth Discovery Version]』
http://shinyakuseisho.com/
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まことをもって。